「わからない」と「何もわからない」のあいだ
はっきりした答えを持てないとき、私たちは何もわかっていないのでしょうか。
仕事では、理由や結論を求められる場面があります。
なぜ、うまく進まないのか。
何を変えればよいのか。
このまま進めてもよいのか。
けれど、手元にある情報だけでは、言い切れないこともあります。
それでも答えを求められると、
「まだわからない」と伝えることに、ためらいを感じるかもしれません。
考えが足りないと思われないだろうか。
責任を避けているように見えないだろうか。
そして、いつの間にか、「まだ答えが出ていない」のではなく、
「自分には何もわかっていない」と思ってしまいます。
けれど、「わからない」にも、いくつかの状態があります。
確かに見えていること。
いくつかの情報から考えられること。
もう少し確かめたいこと。
今は、まだ判断できないこと。
同じ「わからない」でも、その中身は少しずつ違います。
すべてを説明できなくても、繰り返し起きていることには気づけます。
複数の人が、似たような違和感を口にしているかもしれません。
目の前で起きていることを、一つの理由だけでは捉えきれない場合もあります。
確実ではなくても、すでに見えていることまで、なかったことにする必要はありません。
こうして、わかっていることと、まだわからないことを分けて考える姿勢は、
データを見るときにも通じます。
データから、いつも一つの正解が見つかるわけではありません。
確認できたこと、考えられること、まだ判断できないことを分けて捉えていきます。
わからないことまで、わかったように言い切るのではなく、今の時点で言える範囲を示す。
それも、判断に向き合う一つの姿勢なのだと思います。
何がわかっていて、何がわかっていないのか。
その境目が見えてくると、次に確かめたいことも、少しずつ具体的になります。
どのようなときに起き、誰に影響しているのか。
起きていない場合とは、何が違うのか。
「わからない」は、考えることの終わりではありません。
今いる場所を確かめ、次の問いを見つけるための言葉にもなります。
答えを持っていない自分を、
何もわかっていない人として扱わなくてもよいのではないでしょうか。